広報紙『サンガ』
TOP > 広報紙『サンガ』 > バックナンバー > 3分間法話
バックナンバー
3分間法話
  「ムカッ」の行きつく先
武田定光
第16回 <1995年7月>
 

「ムカッ」
[ビートたけし]


 新新宗教に入信される方はマジメな方が多いようだ。人生とは? 生きるとは? 自己とは? という心の奥底からの問い掛けに、マジメに対応している。教団組織には問題があるが、入信者の動機には尊いものを感ずる。そのマジメさはビートたけしの直観とひとつになっているようだ。ビートたけしがこんなことを言っている。
「巨泉さんにオーストラリアで会って、『おまえ、今まで突っ走ってきたけど、今度の事故ではっきり人生わかったろう。人生楽しまなきゃだめなんだよ。ゆっくりしてな、いろんなこと考えて』と言われて、それ聞いた瞬間にムカッと来て、『おれはそんなために生きてきたわけじゃネエ』と思っちゃってね…」

 ビートたけしがムカッと感じたものは、いったい何だろうか? そこに一切の宗教の源泉があるような気がする。想像すると、おそらく日常というマンネリズムに飽き足らない心だろう。毎日同じことの繰り返しで、1日、1年、10年が過ぎ去ってゆく。その「あたりまえ」が耐えられないのだ。それの反動として、いっきに気楽にフマジメになって「もっと、もっと…」という欲望のままに生きられるかというと、それもできない。言ってみれば、マジメにもフマジメにもなることができない。

 それでは何を頼りに生の方向を探ってゆけばよいのか。小生はおそらく自分の感覚だと思っている。なんだ、そんなことはわかってらぁ!とおっしゃるかもしれない。しかし、現代という情報過多の超都市に住んでいると、誤って「情報」を自分だと考えてしまう。

 「背の高いのがよい自分」「健康なのがよい自分」「美人なのがよい自分」「当然幸せになる権利がある自分」「死なないのがよい自分」等々。これらの情報に汚染されて「自分の感覚」が殺されかけている。一番身近で、確かなものは「自分の感覚」以外にない。決して「情報」や「教義」や「観念」ではない。たけしの「ムカッ」と感じた感覚だけがたよりである。その感覚をどんな教義や観念でおぎなっても、それは生きる確かさにはつながらない。

 黒沢明の『生きる』という映画は、その「ムカッ」と感じた感覚が行きつく先を暗示していた。しがない公務員(志村喬が演じる)の日常は、書類に判を押したようなありきたりのものだった。ところがガンに冒され生き方が変わっていくのである。七転八倒の苦悩、やがて紆余(うよ)曲折をへて、今までたらい回しにしてきた地域住民の要望を受け入れ、児童公園を完成させる。粗筋(あらすじ)を書けばそれだけのものだが、映画を見た方はそのとき感動を受けた自分を覚えているはずである。体が知っているはずである。(未見の方は必見です)

 何が私を感動させたのか?結局、行きつくところは死なのに…。でも、死があるからこそ生が輝いてくるんだ。死ほど生を輝かせるものはない。このパラドックスをどう受け止めるか。

 これが「ムカッ」の行きつく先に違いない。

(江東区・因速寺)


戻る

Copyright(c) 2004−2007 HigashiHonganji ShinsyuKaikan All right reserved
(このホームページの記事・画像の無断転載を禁じます)