「凡夫(ぼんぶ)(ただびと)たる我等が、如来(にょらい)(仏)の存在を知らんと欲(ほっ)せば、これを外界に求めずして、むしろ如来の教えによって自己そのものを知ることが肝要である」満之(まんし)
仏教を聴こうとするとき、仏と我(われ)との関わりをはっきりしなければなりますまい。仏者満之は、「仏の教えによって、自己そのものを知る」自己を照らす鑑(かがみ)であるといわれる。照らされている我、照らされなければならない存在の我と気づくには、その教えのことばに遇(あ=)わなければならない。満之は、あえて仏教語を使わず、日常語で仏の救いを説かれる。これが、真実(まこと)の教えのことば。
われらに大事なことは、まことのことばがまことと聞こえるかどうかでしょう。飽食のなかにあって、大事なことばに触れながら、身をかすめるだけで過ごしてしまうことが多い。
満之の、この「我、他力の救済を忘るるときは、わが世に処するの道閉ず」と。これは非常のことばでありましょう。われらの耳には、なかなか聞こえない。聞こえてこないが、これが生きた教えのことばです。真実なることばは、けっして華やかではない。よほど、眼を凝らし、耳を澄まさなければ、見えず、聞こえないものではないでしょうか。
われらは、多くのことばを知り、またであってきたが、とにかく、自分の都合のよいものだけを聞き、都合の悪いものを拒否していることが多いのではないだろうか。
わが人生において、生そのものを根底から問い直すような、まことのことばに出遇(あ)うことは、そう数多くあるものではない。満之のこの一語、「わが世に処する道を閉ざしてはならない。他力の救済に依(よ)れ、それより他に閉ずるを破る道はない」と。
真に目覚(めざ)めた人のことばは、人間を目覚めさせる力をもつ。しかし、我(われ)が目覚めたことばに、すぐ反応するとは限らない。だとすれば、問うことが大事だ。時間をかけても問い続ける。それを聞法(もんぽう)という。聴聞(ちょうもん)という。この身が聴き、わが心が聞く。目覚めた人のまことの音声(おんじよう)にふれて、目を覚まそうともしなかった我がハッとする。そういう「とき(機)」を出遇いというのでしょう。
実は、我の深奥から求め続けていたものが何であったか、我に先立って我を言い当てられてある。我が掘り起こされるのでありましょう。
真実の教言(きょうごん)に出遇うた人が、その感動とともに、我を信じた人を、真に信ずるということがおこる。「帰依(きえ)」ということがおこるのでありましょう。
(埼玉県・照誠寺住職)
