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3分間法話
  本当に自分の生を生きたい
花園彰
第14回 <1995年3月>
 

いのちみな生きらるべし
[リルケ]


 いじめによる子どもの死が問題になっている。テレビや新聞でも大きく取り上げられている。いじめられた子どもの日記もあった。ある新聞には、いじめる側の子どもの言葉として「親はおれが何時に帰って、いつ出て行っても何も言わない。だれも、おれのことなんか期待していない」とあった。レールからはずれた少年たちはいら立っているのだという。

 いら立ちはどこからくるのだろうか。一面それは、いい子、いい成績、いい学校、いい会社という、大人の期待する評価からはみだしてしまった自分をもてあましているということがあるのであろう。しかし、少年がだれも自分のことなんか期待していない」と言わざるをえないところには、少年のみならず、私たちの世界の荒涼(こうりよう)たる荒野があるように思えてならない。

 人間は期待されてこそ、また必要とされてこそ、生きていくことができる。待って迎えてくれる者がいるからこそ、そこへ帰っていくこともできる。少年たちのいら立ちには、生きていることの存在理由を見いだしえない、いのちそのものの渇きが奥にひそんでいるように思える。

 子どもが社会を映す鏡であるならば、私たちの社会は液状化現象のように、大地の下の見えない地殻から病んでいるのかもしれない。

 私に縁のあった先生が、講義の中でリルケの詩を紹介してくださった。

あたかも牢獄を逃れるごとく
人はみな自己の前を逃れんとすれども
世に一つの大いなる奇蹟あり
我は感ず
いのちみな生きらるべし

 世を恨(うら)み、自分に唾(つば)を吐(は)いて、自分という牢獄に窒息して生きている私に向かって、「あなたはあなたであればいい」と、無条件に迎えられている世界の足下にあることを先生は教えてくださった。

 あとで知ったことだが、そのリルケの詩の前には、「誰ひとり自分の生を生きていない」「ただ声であり、破片であり、日常であり、不安であり、多くのささやかな幸福であるにすぎません。子供の時からもうすっぽりと仮装され、仮面として成人となり、顔などは消えているのです」という詩句がある。

 少年たちのいら立ちには、仮面として社会に適応して生きていくことに対する違和感、そしてただの声、ただの破片になることへの反発、そして何よりも本当に自分の生を生きたいという叫びがかくされているのではないかと思う。

 その声をどう聞きとっていくのか。それこそが誰も押さえ込むことのできない「衆生(しゅじょう)の本願」である。

(台東区・円照寺住職)


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