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3分間法話
 仏様とはどんな人であるか
いちいさとる
櫟暁
第12回 <1994年11月>
 

一、仏様とはどんな人であるか。
我は南無阿弥陀仏であるとなのっておいでになります。

二、仏様はどこにいなさるか。
仏様を念ずる人の前においでになります。

三、仏様を念ずるにはどのような方法がありますか。
仏たすけましませと念じます。
だれでも、どこでも、いつでも、たやすく
仏を念ずることができます。 [曾我量深]


 今から約40年前、新潟県の長岡に一人の老婆がいた。若いときからよく寺の法座につらなって真宗の教えを聞いていたが、老衰して寝たきりになってしまった。命ある間に信心をはっきりしたいという切なる願いがあったが、どうすることもできなかった。
ちょうどそのころ、曾我量深(そがりょうじん)先生が近くの寺においでになるときいて、嫁に先生の法話を聴き、その内容の要約を伝えてもらいたいと頼んだが、嫁は「自分は先生の法話を理解してお母さんに伝えることはできません」と断った。

 断ったものの、なんとか一言でも姑に伝えたいと考え、嫁は曾我量深先生に面会して、事情を話し、姑のために、「真宗の教えをわかりやすく書いていただきたい」と切望した。先生は、その願いに応じてすぐ筆をとり、

一、仏様とはどんな人であるか。
我は南無阿弥陀仏であるとなのっておいでになります。

二、仏様はどこにいなさるか。
仏様を念ずる人の前においでになります。

三、仏様を念ずるにはどのような方法がありますか。
仏たすけましませと念じます。
だれでも、どこでも、いつでも、たやすく仏を念ずることができます。
昭和三十年九月十三日
曾我量深

 と書き与えられた。

 この年の暮れに渡米されてロサンゼルスの別院でも同じような言葉を残しておられるが、その第三のところが、

 「南無阿弥陀仏と一念疑いなく自力の計(はか)らいをすてて、静かな心をもって、仏願わくばこの罪ふかき私をたすけましませと念ずるのであります。これは誰でも、どこにいても、いつでも、悲しい場合でも、うれしい場合でも、たやすく仏を念ずることができるのである。この念が現前するとき、いかなる煩悩妄念がおそい来っても、内心の平和は絶対に破れません、これを真の救済と申します」

 となっている。

 曾我量深先生は、このことがあってから約15年後の昭和46年6月20日、96歳の高齢でなくなった。

 先生に長年随行してきた藤代聡麿師は、この短文はいわば法然上人の『一枚(いちまい)起き請文(しょうもん)』のようなものであると尊び、曾我先生の十三回忌法要にあたり、『鸞音抄(らんのんしょう)』という書名で出版された小冊子の中にとり入れて、全国の有縁(うえん)の同朋(どうぼう)に印刷配布してくださったので、私もその簡明でしかも深いみ教えに接することができたのである。

(首都圏教化教導)


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