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3分間法話
  政教分離と信教の自由
白川良純
第11回 <1994年9月>
 

(しん)を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶっじ)に樹たて、
念を難思(なんじ)の法海に流す [親鸞]


 今日、マスコミなどにおいて、政教分離ということがやかましく言われているので、この言葉を知らない人は少ないと思われる。しかし、その意味を深く考えている人は、これまた少ないのではないであろうか。

 日蓮上人は王仏冥合(おうぶっみょうごう)ということを言われたという。自分がほんとうに信ずる宗教と現実の社会の動きが一致することができたら、こんなに都合のよいことはない。それはまさに理想である。したがって王仏冥合をとなえるのは、当然のことであり、理にもかなっているのである。

 しかし、価値観が違い、宗教も異なっている人が多い現代の社会において、それを押し通されたら、その宗教を信じている人はよいであろうが、他の人びとは、社会の隅に追いこまれ、肩身の狭い思いをしなくてはならない。自由や民主主義を標榜する社会において、そんなことは通らない。

 最近ある雑誌に、「信教の自由」侵して何の「政教分離」か。という論文が寄せられているのを見たが、「政教分離原則」は「信教の自由」の保障が目的であって、その眼目は、「国家の宗教的中立性」にあり、「宗教の政治的中立性」を要求するものではないという。万民の平等な政治参加こそが民主主義の根本原理であって、宗教は個人の内面に基礎を置きつつも、個人の内面の変革が内面生活にとどまらず、社会に対する働きかけと行動に昇華されるべきものであり、宗教活動は現実社会から遊離したものではないという。

 「万民の平等な政治参加こそが民主主義の根本原理」というが、現実にこの社会において実現されるのであろうか。。民のという以上、われのみならず、他の立場も考慮されていなければならない。

 親鸞聖人は、「たとい、牛盗うしぬすびととはいわるとも、もしは善人、もしは後ご世せ者しゃ、もしは仏法者とみゆるように振舞(ふるま)うべからず」(『改邪鈔』)と仰せられたと伝えられている。

 世俗的権力は、政治の世界へ返さなければならない。いわゆる「カイゼルの物はカイゼルに」である。宗教はあくまで宗教性を重んじ、その領域を守らなければならない。それが「政教分離」の本旨であろう。

 かつて、ブルクハルトは、歴史を動かす、三つのポテンツとして、国家と宗教と文化とを挙げ、相互に関わり合う関係を論じているが、その深い意味を味わうべきである。

 「心(しん)を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶっじ)に樹たて、念を難思(なんじ)の法海に流す」(『教行信証』後序)のは、仏の境界であるが、われわれ凡夫も、その流れの中に救われていく身であることを常に思い、仏智の深遠な思いにわが身を任せていかなければならない。ここに世間を超えた、宗教の世界の高次性があるのであり、凡夫の世界を超えた、仏の世界の広い展開があるのである。

(台東区・源隆寺住職)


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