雑記帳
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 いのちに目覚ざめて生きる
明治大学文学部助教授 諸富祥彦 

  真実の自分を生きるとは、どのようなことであろうか。この問題への答え一つに、その人が自分という存在をどこまで突き詰めて考え、また生きているかが示されるように思われる。

 自分という存在を、それほど突き詰めて考えたことのない人にとって、真実の自分を生きるとは、ただ自分らしい自分を生きること、自分がほんとうにしたいことをして生きることにほかならないだろう。そしてその結果、幸福な家庭を築き、経済的にも豊かになることができれば言うことはないはずだ。

 もちろんこれはこれで、きわめて重要な課題である。最近話題のニートのことを持ち出すまでもなく、多くの若者たちは「自分のしたいことがわからない」と訴える。自分のほんとうにしたいことに気づき、その実現に邁進できるのであれば、たしかに人生は、それだけでもうじゅうぶんに幸せなはずである。
しかし、いったん、自分という存在を突き詰めて考え始めると、そうはいかなくなる。

たしかに、ほんとうにしたいことができれば、それで幸せだろう。しかし、この自分という存在そのものが、いずれ永遠に、跡形なく、消え去ってしまうのだ。そしてその先は? 自分っていったい何ものなのだろう?

 私たちは、気がついたときにはすでにこの世に存在しており、そしていつしかこの世から消え去る宿命にある、はかなき存在である。いったい、私は、どこから来たのか。そしてどこへ行くのか。この問いに、納得のいく答えが得られなければ、真実の自分を生きるなどということは、とうてい不可能なように思われる。

 私は、どこから来て、そしてどこへ行くのか。この、言わば究極の問いに対しては、もちろん、さまざまに答えることができるだろう。まっとうな知識人にとって、この問いは、それに正面から無防備に答えることを避けるべき、素朴すぎる問いなのかもしれない。

 けれど私はあえて、まずこの問いに、こう答えてみたい。

 「私は、いのちから来て、いのちに帰っていく存在なのだ」と。

 私が生きている、とは、どういうことか。それは「私がいのちを持っている」ということではない。

 ほんとうに存在し、また生きているのは、私とか、あなたとかといった区別を超えており、また私とかあなたといった個々の形に分かれる以前の、おおいなる"いのちのはたらき"そのものである。この、おおいなる"いのちのはたらき"そのものがまずあって、その"いのちのはたらきが、私をしている"。同じ"おおいなるいのちのはたらき"があちらでは"花"という形、こちらでは"草木"という形、あそこでは"鳥"という形をとっている。そしてその同じ"いのちのはたらき"が、今・ここでは"私"という形をとっている。

 この空も、あの海も、今、私の眼前にあるあの山も、むこうから聞こえてくる鳥の鳴き声も、野原でひっそりと咲いている花も、そしてもちろんこの私も、すべてはもともと一つ。同じ"いのちのはたらき"の異なった形なのである。つまり、もともとは同じ、ひとつの(したがって不可分の)"いのちのはたらき"が、ある時は"私という形"をとり、またある時は"花という形"をとる。

 私の肉体は死によって消えてしまうけれど、私を私たらしめている"いのちのはたらき"はもともとあり、また、いつまでもある。不生不滅の"いのち"が、ある時は"私する"し、ある時は"花する"。またある時は"鳥する"。次々と変転万化し、異なる形をとっていく。そんなふうに見ることができる。

 こうした認識に立つならば、「私はどこから来てどこへ行くのか」という先の問いに対して「いのちから来て、いのちへと帰っていくのだ」と答えることができるように思われるのである。

 この答えの背景には、私という存在の本質は、あらゆる他の存在たちと、もともと同じ、ひとつの"いのちのはたらき"を分け合っているところにある、という認識がある。"いのち分け合いしもの"そこに人間存在の本質があるのだ。

 すると、真実の自分を生きるとはどう生きることか、という冒頭の問いに対しても、さしあたり、自分という存在が本来、"いのち"のとった一つの形であることに目覚めて生きることである、と、そう答えることができるだろう。

 ここで重要なのは、いのちとか、私という存在について語る際の立脚点が、私から"いのち"の側へとシフトしてしまっている、ということである。あくまで、私の側から、私の視点にとどまって、「あぁ、いのちが私になっているんだなぁ」とぼんやりと眺めるように、対象的に考えるのではない。立脚点がいのちの側に移り、いのちの側から語る、ということである。

 それはこういうことである。瞑想や心理療法などの体験において意識水準が深まり、立脚点がその"いのちのはたらき"の相にシフトしていくにつれて、この世界のすべてのものは"ひとつ"につながっており、"ひとつのいのちのはたらき"を分け合っている、という仕方で"見えてくる"ということがある。
目の前のこの花のいのち、草木のいのち、そして、あそこであくびをしている猫のいのち、私のいのち・・・これらは、目には見えないけれど常にすでに働いている"ひとつのいのちの働き"の現れであり、そうであるけれど、同時にそれらは(決してバラバラになったのではなく)"区別できる形で"姿を現しているのだと"見えてくる"。意識水準が深まり、"いのちのはたらき"の相に着目するようになるにつれて、そのように世界が"見えてくる"。そんな地点が、実際にあるのだ」。これは、宗教哲学的な認識の問題というより、意識水準の深化という体験における"出来事"であり、そのありのままの描写である。

 もし、いつの日か、もし私の修行が進み、意識水準が極限まで深まって、立脚点がすっかり"いのち"の側に移るような出来事が起これば(したがって発語の主体も"いのち"の側に移るようなことがあれば)「どこから来て、どこへ行くのか」という先の問いに対しては、こう答えることになるだろう。
「どこからも来ないし、どこへも行かない。私はずっとここにいたし、今もいる。またいつまでもいるだろう」と。

◆執筆者プロフィール◆

諸富祥彦(明治大学助教授)

もろとみ・よしひこ
1963年、福岡県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。米国トランスパーソナル心理学研究所客員研究員などを経て、現在、明治大学文学部助教授。専門はカウンセリング。臨床心理士。日本トランスパーソナル学会会長。主な著書に『むなしさの心理学』『カウンセラー・パパの子育て論』『生きがい発見の心理学』『生きていくことの意味』『上手な「悩みの整理」術』『生きるのがつらい。―「一億総うつ時代」の心理学』など多数。

 

 


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