法事をつとめられ、どういう感想をもたれましたか。大切な仏事ですので、今一度、法事について考えてみたいと思います。『法事をつとめる』(池田勇諦講述
・東本願寺出版部発行)には、次のような実話が紹介されています。
卒業を一カ月後に控えた大学四年生の一人息子を交通事故で亡くされた方がいます。成績もよく、両親は希望に胸をふくらませて卒業を楽しみにしておられました。その矢先の事故です。お母さんはおっしゃいます。
「私がこんなひどい目に会わなければならないのは、私がこれまで先祖を大切にしてこなかったからではないかと思えてなりません。私の家には、ご先祖からの立派なお仏壇がありますが、お仏壇のことは年寄りまかせで、私はお嫁にきて二十何年、ただのいっぺんもお仏壇の前に座って、ていねいにおまいりしたことがありません。こんなひどい目に会うことによって、つくづくそのことが反省させられるのです。
私は、あの子が死んでから、毎日朝晩おつとめをさせてもらっています。しかし、『帰命無量(きみょうむりょう)……』という『正信偈(しょうしんげ)』のつとめ方も知りません。『正信偈』の録音テープを求めて、それを師匠にして朝晩おまいりしています。あの子の命日と、初めのうちの七日七日にお墓まいりをさせてもらったりしています」
熱心な姿に頭の下がる思いがします。そして朝晩の『正信偈』のおつとめは、浄土真宗の教えにふれることになりますので、とても大切なことです。しかし、この方は、亡き人のためだけにおつとめをしているように感じられます。
先の書で池田氏は、
「その方がどんな生きざまをして、どんな死にざまをされたにしても、そのお人のうえから私が本当に聞き取らなくてはならない大事なことがあるのです。そのことが我が身に感じ取れたとき、仏さまでないものは一人もないのです」
と、教えてくださっています。
大切なことは、私が亡き人のために何かをしてあげるのではなく、私が亡き人から教えられていたことに気づいていくことなのでしょう。このことは、法事のときだけでなく、日々の生活の中でお確かめいただきたいと思います。そして何よりも、「聞法もんぽう」を大切にする日暮らしをしたいものです。
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