蓮如上人(れんにょしょうにん)は、
「他流(たりゅう)には、『名号(みょうごう)よりは絵像(えぞう)、絵像よりは木像(もくぞう)」というなり。当流(とうりゅう)には、「木像よりはえぞう、絵像よりは名号」と、いうなり』
と言われています。
この言葉は、浄土真宗以外の流れをくむ仏教では「名号のご本尊よりは絵像のご本尊、絵像のご本尊よりは木像のご本尊がよい」というが、浄土真宗では「木像のご本尊よりは絵像のご本尊よりは名号のご本尊がよい」という意味になります。(木像・絵像・名号の違いについては第31回をご参照ください)
木像・絵像・名号、それぞれのご本尊にはそれぞれ大切な意味があります。蓮如上人は、こうした比較の表現をとることによって、真宗の本尊の意味を明らかにしようとされたのでありましょう。

先覚・安田理深(やすだりじん)師は、先の蓮如上人の言葉に続けて「壁にかけてある名号より口から出る名号、これが本当の生きた本尊」と語っています。
つまり、本当に尊い生きた本尊とは、彫刻の阿弥陀如来(木像)や絵画の阿弥陀如来(絵像)、書の名号そのものではなく、人の口を通して“南無阿弥陀仏”と噴出するお念仏が尊いのであると、教えてくださっているのです。
ですから、「木像より絵像、絵像より名号」、さらには「壁にかけてある名号より口から出る名号」という次第は、それぞれの価値やご利益の順番を表しているのではないのでしょう。また、木像本尊や絵像本尊では意味がないというのでもなく、今、口に称(とな)える名号=南無阿弥陀仏こそが、本当に尊いご本尊なのだということを示しているのです。
そういう意味で、木像→絵像→名号の順番は、木像・絵像という形あるご本尊から人間生活のまっただ中に生きてはたらく名号本尊へという次第を教えてくださっていると言えましょう。
さて、お内仏(ないぶつ)(仏壇)には、絵像のご本尊をおかけしますが、口に称える名号が本当のご本尊というならば、ご本尊をおかけする必要はないのでないかと思われるかもしれません。実はそうではないのです。次回に考えてみたいと思います。